** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    

  2012.08.18 第25回講座

     「青い風船」が飛んだ  宮内 純子氏


 終戦の年 昭和20年は国民学校の5年生でした。戦時中、
父の仕事の都合で韓国慶尚北道大邱府で暮らしていました。
子ども心に、戦争の虚しさを感じていました。いまからお
話する「風船爆弾」については、もちろん 耳にしたこと
もありません。

 風船が武器に使われてのを知ったのは、ずっと後のこと
です。たまたま勤めた学校が、風船爆弾を開発した川崎市
登戸の旧陸軍登戸研究所の近くだったためです。

 退職間近になって、風船爆弾を追う旅がはじまりました。わたしの関心を高めたのは、
その風船爆弾が、勤労動員された多くの女学生たちの手でつくられたことでした。当時、
女学校の低学年は、校内に特設された「学校工場」で、高学年は近くの軍需工場に派遣
されて軍需品の製造に関わったのです。

 風船爆弾に使う大気球(風船)は、全国各地で作られました。大きな和紙をこんにゃ
く糊で五重にぬりかためる作業は精神的にも肉体的にも重く苦しい作業でした。気泡を
つくらないようにと何度も何度も手で紙をなぞるので、指紋がすり減ることもあったそ
うです。今回 わたしも登戸研究所の方の指導でほぼ同じ手法でミニチュアをつくって
みました。

 風船爆弾づくりは「ふ号作戦」と呼ばれてたようです。女学生たちがつくった大風船
は太平洋岸の茨城県中津 福島県勿来 千葉県一ノ宮の3箇所の放流地に集められ、爆弾
や焼夷弾が注ぎ込まれました。昭和19年から20年4月にかけてアメリカ本土に向けて約
9000個放流されたのです。

 偏西風に乗って米本土に到達したのは300個前後といわれています。アメリカ側の
被害は「軽微」とされてますが、山火事が起き、オレゴン州では後日 風船を拾い上げ
た牧師一家6人が亡くなりました。直接の被害はなくってもアメリカにとっては、飛来
した風船は 不気味な存在だったようです。

 過日 放流地の長浜海岸を訪れました。岡倉天心の六角堂につながる風光明媚な地で
した。平和な風景のなか、浜の一角に「忘れじの平和の碑」がたっていました。台石に
こんな一節が刻まれていました。


  海のかなた/大空のかなた/消えて行った 青い気球よ あれは幻か 今はもう
  呪いと殺意の 武器はいらない 青い気球よさようなら さようなら戦争 

                               鈴木俊平 作

 フリートーク 「戦争を語り継ぐ」
 
    

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