** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第37回講座    2013.08.23  町田市民フォーラム


      教師として見た町田の戦中戦後
            ー 平和を願って語る ー    志村妙子 氏


 いろいろ気をもんだのですが、「90歳を超えた今、雑学大学の
演壇に立ててよかった。」という感慨があります。
 多感な女子師範学生時代と鶴川での教員生活、この間戦争が絶え
間なく継続し、戦時色に塗りつぶされていました。師範学校時代の
2年間は時間に縛られ、小石川の校舎から靖国神社まで徒歩、清掃
作業のご奉公。息つく暇なく登校という生活が2年間に及びました。
 昭和16年学制改革で小学校は国民学校となり、太平洋戦が勃発。
翌17年東京女子師範を卒業、鶴川国民学校に3人で辞令をもらい
赴任。都会の生活に慣れた私にとって、そこは農村地帯で、今では考えられないほど驚く
ほどの田舎でした。当時はさほど戦況が押し迫ってはおらず,農村は落ち着き、そこに戦
争は感じられませんでした。しかし軍隊式の朝礼は厳格で、2回目の注意は激しい体罰。
子供達へのビンタの音が聞こえるたびに胸を痛めました。体育は軍隊式教練、女子は薙刀、
男子は相撲。戦時色がますます濃厚となった。
 昭和18年、出征兵士が増加、縁故疎開による児童数の増加、そして配給制度が始まり
ました。翌19年、戦況いよいよひっ迫。遺骨を迎えることが頻繁となり、集団疎開で教
室が足りなくなり、学年を問わず教室を共有しました。授業よりも勤労奉仕が優先され、
子供たちは農家に出向き、松根油の採取にも奉仕しました。辛かったのは食糧難。昼食時
には子供達は弁当を隠れて食べたり、いなくなったり、と心配が絶えませんでした。「ほ
しがりません、勝つまでは」の標語は虚しいだけでした。
 町田上空にも米軍機が飛来、翌20年終戦の年、研修で東京に戻っていた私は焼死体を
またいで歩くほどの激しい空襲に遭遇、そして終戦を迎えました。戦後、古い教科書の不
適な部分を墨で塗りつぶし使用していましたが、「これが教育か」と思いつつも、ひたす
ら教育に打ち込みました。終戦というよりも戦後の苦しさから敗戦と言うほうが理に適っ
ていると思います。
 昭和22年6,3,3、制がスタートしましたが、翌年一身上の都合で退職致しました。
そして昭和33年町田市制施行と同時に正式教員として復職、町田の発展と共に以後24
年間奉職しました。
 町田市も都市化の波に洗われ、発展を遂げました。巨大な団地が次々に建設され人口の
増加と共に、学校も増加され、社会の激動は子供達にも及びました。土地売却による裕福
な家庭の子は持ち物が贅沢になり、買えない子との格差が歴然としてきました。このよう
な差別化が子供たちの将来にどのような影響を及ぼすか。戦後教育の私の最大の悩みでし
た。
 戦争を知らない子供達には体験を語り継ぐ大切さが必要です。食糧難の体験等は現代で
は理解し難いでしょうが、そこには思いやりの原点があるのです。それを感じて子供達は
真剣に話を聞きます。体験を語り継ぐことにより、子供たちは「思いやり」と「優しさ」
を育んでいくことでしょう。



語 り

志村さんが朗読なさった茨木のり子さんの詩 『倚りかからず』
    

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