** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第53回講座    2014.12.09  町田市民フォーラム

            ハンガとは半分の画か―近代における日本の版画の変遷
     ー 近代における日本の版画の変遷 ー   村田 哲朗 氏

 町田市立国際版画美術館では、現在、『全国大学版画卒業展』が開催され
ている。
 館長の村田哲朗氏は、東京藝術大学美術学部に通っていた当時、日本美術
史の講義においても浮世絵など版画についての講義はなかった、と回想され、
「版画」による大学生の作品の展覧会が開かれるようになったことは感慨深
い、と語られた。我が国において、「版画(創作版画)」が人々の理解を得
るまでには、長い道のりがあったという。
 村田哲朗氏は、近代における「創作版画」への道のりとその歩みについて、資料と画像を基に、
作家のエピソードをまじえて、次のようにお話しされた。

 1904年7月、文芸誌『明星』に掲載された山本鼎の木版二度刷り
「漁夫」(右写真)、これを石井柏亭が「木口彫刻と絵画の素養と
をもって画家的木版を作る。刀はすなわち筆なり」と評し、版画は
「刀画」として紹介されていた。石井柏亭はその後、1907年5月、
山本鼎、森田恒友とともに美術文芸誌『方寸』を創刊、1909年、
〈文芸百科全書〉にて「創作版画」の言葉を確定した。
 1910年4月に創刊された文芸誌『白樺』では、岸田劉生が表紙絵
を描き、デューラーが特集され、ゴッホ、ムンク、セザンヌ、さら
にヨーロッパの新しい美術も紹介されていた。この『白樺』が開い
た展覧会を見て、「ムンクの木版画は大きな刺激であった」と恩地
孝四郎が『創作版画回顧』に書いている。
 1912年10月、文芸誌『聖盃』(後に『假面』)が創刊され、19
13年、假面社展に永瀬義郎、長谷川潔らの版画が出陳された。
 11月16日の大阪朝日の「創作版画特集」に掲載され
た岡本帰一、森田恒友、南薫造の記事に「創作版画」の
「自画、自刻、自刷」について説明がある。その一方で、
斎藤与里、木村荘八の木版画に対する批判もあった。
 1914年9月、恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄らが、
版画と詩の雑誌『月映』を創刊。
 1916年、永瀬義郎らが「東京版画倶楽部」を結成。
その第一回展のとき、永瀬の作品をめぐって警官との間
で、「版画は半画なり」というフレーズを呼ぶこととな
るエピソードが起こった。永瀬が出展した「抱擁」につ
いて、警官が、「この画は半分しかかいていないな、だ
から半画か」などと言って、永瀬の家まで版木を没収し
に行ったというのである。(永瀬義郎自伝『放浪貴族』) この永瀬義郎の妻イトは結核で早くに
亡くなったが、イトをモデルとした絵画は、詩人北原白秋に生涯大切にされた。
 1918年6月、山本鼎、寺崎武男、織田一磨、戸張孤雁らが発起人となり日本創作版画協会創立。
 1931年1月、版画家が大同団結して日本版画協会が設立され、現在にいたる。
 今年は、東京で第82回の展覧会が開催された。
    

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