1.「ないないづくしの町田古代史」
古代史研究を始めた23年前、「ないないづくしの町田古代史」という言葉
が研究者の間にあった。それは、「町田は横穴墓ばかりで高塚古墳がな
い、大きな神社も寺院もない。だから、たいした古代史はないだろう」という
ものだった。しかし、すでに1959年には『多摩地域における古墳及び横穴の
調査』(都教育委員会)で、市内に高塚古墳と思われるものが複数存在する
ことが指摘されていた。だが、その多くは調査されないまま、大手不動産が宅地開発してしまった。
そんな中で、能ケ谷古墳は後に松本の仲介で町田市が発掘し、高塚古墳と確認された。
また、1977年には羽根田正明さんが、翌1978年には白州正
子さんが、著書で、相原町の多くの神社で、騎馬民族の子
孫ではないかとも言われる継体天皇の長子、安閑天皇が祭
られていることに注目していた。加えて、1977年から発掘
調査が始まった相原町の武蔵岡遺跡では、6世紀代の大住
居址群が発掘され、桐生栄氏や松本らによる市民の研究組
織、境川上流域遺跡学際研究会は、小林三郎明大教授らの
協力を得て、「この遺跡は安閑天皇の屯倉に関するもので
ある」と指摘していた。私自身が確認したことだが、この
ような状況があったにもかかわらず、当時の町田市教育委
員会にはヤマト王権の地方支配の拠点である屯倉や、
「武蔵国造の乱」や安閑天皇のことを知っている者はいなかった。縄文時代を中心にした考古学を
専門にする優秀な市職員がいた反面、古代~中世の文献史学や民俗学、歴史地理学に明るい人がいな
かったことが致命的だった。
ようやく1990年代に入って、多摩ニュータウン建設事業に伴う堺地区の調査で多くの遺跡が発掘され、
多摩丘陵の古代に関心が集まるようになった。しかし、未だにこの地域の遺跡がヤマト王権と関係する
如何なる歴史的背景を持つものであるかは、ほとんど言及されていない。市史の見直しが30数年されて
いないことからも明らかな通り、町田の古代史研究は周辺自治体に大きく遅れをとっている。歴史地理
学による本日の報告を通して、大きな古墳やきらびやかな遺物のない地にも、全国に発信しうる壮大な
歴史があることをお伝えしたい。
2.歴史地理学の研究法
歴史地理学という学問について簡単に説明しておきたい。歴史地理学は、景観、地形、絵図、旧版地
形図、考古資料、文字資料、伝承資料(地名、民間伝承)などを地図上に集成して、歴史を解明する
ものである。論理実証主義の立場をとり、状況証拠しかない場合でも、論理的に一貫している場合は、
とりあえず結論を尊重する。
近年は、田敏弘先生を牽引車として、時代をぶつ切りにして考える「時の断面説」から、継続と
変容の両面を総合的に検討するプロセスとメカニズム論へと進化してきている。考古学や文献史学
だけでは解明できなかった古道、宮都、地方の役所、条里などの研究で成果を上げている。
3.安閑天皇の「横渟の屯倉」はどこか
次に、江戸時代から埼玉県の「横見郡」(東松山市周辺)説と「多摩の横山」(八王子~町田周辺)
説があった、安閑紀の「横渟の屯倉」の比定地について考えたい。
(1)研究史
この問題について、1.『東京府史』(1930年代)と、2.甘粕健氏((『横浜市史』、1958)は
中立説をとっている。「横見郡」説をとるのは、3.吉田東伍(『大日本地名辞書』、
1900~)や4.原島礼二氏・金井塚良一氏(『東松山市の歴史』、1985)である。原島氏は「横ミ
(見)は横ヌ(渟)と変化した」としたが、5.鈴木靖民先生は「音韻学上その可能性は低い」と批判
している(『川崎市史』、1993)。また、金井塚氏は、「横見郡の6世紀末~7世紀代の胴張式横穴式
石室を持つ古墳は横渟の屯倉設置にともなって移住した渡来系氏族・壬生吉志の墓で、安閑紀(534
~536年)に集中する屯倉設置記事は実年ではない」としたが、森田悌氏ほかは「この年代観は意図
的な資料操作だ」と批判している。「多摩の横山」説を、古くからとるのは、6.山岡俊明『武蔵志料』
(1770)や7.『旧版・埼玉県史』(1931)であるが、地元の8.佐藤孝太郎氏(八王子市)や
9.羽根田正明氏(町田市)も、アカデミズムの研究者が主張する以前から「横渟の屯倉は多摩の横山で
ある」と明確に指摘していた。そして、鈴木靖民先生の『武蔵国造の乱』シンポジウムでの講演(1995)
を受けて、「横見郡」説だった原島氏が鈴木説に賛意を表明したことがターニング・ポイントになって、
現在は、「多摩の横山」説が文献史学の世界では優勢になっている。
(2)歴史地理学で考える「横渟の屯倉」の比定地
「横渟の屯倉」=「多摩の横山」説を歴史地理学の立場から補強しておきたい。水津一朗先生は、
「固有の地名も,(一定の体系の)構成要素のレベルで、はじめて成立する可能性が高い」と体系的
地名論を展開している。この考えに基づけば、『常陸国風土記』や応神紀などで「タマ」と読まれて
いる「渟」=「玉」であり、〈小玉(児玉)~先玉(埼玉)~玉(いわば本玉と呼ぶべき府中付近)
~横玉(横渟)〉という、南北に繋がる体系的地名が古代武蔵に存在していたと考えられる。したがっ
て、八王子~町田周辺に比定される横玉である「横(=横野=横山)の屯倉」は,先玉である横見郡で
はありえない。
4.「横渟の屯倉」の空間構造と開拓者
(1)空間構造
次に、これまでほとんど解明されていない屯倉の空間構造について、境川(古名・高座川)上流域を
中心に考え、「多摩の横山」説の更なる補強を試みたい。
1.拠点集落 鬼高式土器編年の第2期に、川辺に突然出現する大集落遺跡・
武蔵岡遺跡(大戸地区)。ここを拠点に、下流の相原地区や谷戸山全体の開発に入ったと考えられる。
2.開拓者の墓 ○春林横穴墓群(神奈川県下最大規模)=雌龍籠山を水分山とする相模川流域の開拓
氏族の墓。○開都横穴墓群=雄龍籠山を水分山とする境川流域の開拓氏族の墓。
○川尻八幡古墳=開拓氏族の長たちの群集墳=境川・相模川両水系の分水嶺上に築造。
※拠点集落の出現と墳墓の出現に数十年の差がある。当初は谷戸山最奥の森に埋葬された可能性が
あり、その一つが蔵王社(祭神・安閑天皇)背後の前方後方形のマウンドか?
3.皇子の墓? 春日社(祭神・安閑天皇)の参道終点にある山山頂の塚。伝承などから、屯倉で養育
された皇子が地域内にいた可能性が高い。
4.春日山田皇后の名代とその中心施設(うちつみや)
○名代=春日谷戸・春日の森・春林・お林(春日神社の社域)・宮田(春日神社の水田と伝わる)と
いう地名が接続する地域。
○宮殿「うちつみや」=武蔵岡遺跡対岸の「古宮」付近?(貞享元年絵図に旧春日社)
5.屯倉の設置者,安閑天皇を祭る神社 =古道の基点
6.畑・水田 丘陵尾根部には多摩ニュータウン№235遺跡に見られるような古墳時代後期の焼畑が広がっ
ていると考えられ,また,丘の下に谷戸田の存在が考えられる。
7.屯倉道 ※万葉集巻十三・3206 「三宅道(みやけじ)」
イ.拠点集落地区内の道=安閑天皇を祭る三つの神社を結ぶ東西路=旧町田街道
ロ.拠点集落を結ぶ南北路=武蔵岡遺跡と八王子市の中田・船田遺跡を結ぶ道=七国峠道
ハ.「横渟の屯倉」と鎌倉の屯倉を結ぶ道=安閑天皇を祭る神社のある大岳山をアテヤマとすると考え
られる藤沢市内を通る推定伝路(『神奈川の古代道』)
ニ.(小倉の川港でハの道と繋がり)上毛野に至る軍事道路=恋路峠道(「鎌倉街道山ノ道」)
8.壇=祖霊神に祈り、送迎する場)
イ.大戸区の人々の壇=「雨乞いっぱ」=高良山 ※地名「段木り」=壇入り
ロ.大壇=龍籠山‥大戸地区よりも広い範囲の人々の壇
※地名「大段木入」=大壇入り)…山頂から大甕と思われるものを含む須恵器2点を採取。
9. その他、存在が推測されるもの
牧=谷戸(『新編武蔵風土記稿』では「馬込」) 牧関連施設=相原遺跡群(方格区画溝、2列9基の
馬の墓) 窯業・木工・鍛冶関連施設=都埋蔵文化センターが「古代手工業センター」と呼ぶ相原・
小山の谷戸山地区(但し、中心は推古期の屯倉か) 川港=小倉(河が荒れてもここまでは相模湾から
帆掛け舟が入った。 景観暦としての施設=川尻八幡参道(二十四節気の「雨水の日」=元嘉暦の正月
、「霜降の日」の日の出方位に対応)
(2)開拓者とその性格・役割
境川源流域の隣接した高良谷、春日谷、秦良谷、細豊などの地名は、故国を大陸・朝鮮半島に持つ、当
初は南大阪などに配置された渡来人が、屯倉の入植者として、上流から下流へ、谷戸ごとに再配置され
たことを示す体系的地名だと考えられる。最初に配置されたと考えられる南大阪の事例等を参考にし
て、『新編武蔵風土記稿』などに見える地名を検討すると以下のようになる。
1.高良谷(境川最上流域)-高句麗系渡来人。天皇方の父系氏族。
2.春日谷-百済と親和性が高い和邇系春日氏。皇后方の母系氏族として名代の運営・管理、皇子の
養育を中心的に担ったと考えられる。和邇氏は横山党・小野氏の先祖)
3.谷,細豊-秦氏=古代日本最大の開拓氏族・技術者集団。屯倉のプランナーであ り、農業、
木工、養蚕、馬牧などの実働部隊であると同時に、百済系氏族と高句麗系氏族等の接着剤的役割を果た
したと考えられる。 ※欽明即位前紀
4.風間地区-伽耶系渡来人?
5.まとめと展望
(1)本地域に見られる安閑紀の屯倉は、いわば海原に浮かぶ有人島が航路で結ばれたような構造である
と考えられ、これは六世紀前葉の、畿外における王権の領域的・人的支配の実態を示しているので
はないかと考えられる。
(2)本地域の屯倉の設定にあたって最も重視されたのは、南武蔵と上毛野を結ぶ「道」(=相模川を使
った水上交通+陸路)であり、本地域は上毛野を意識した軍事道路の結節点の性格が強いと思われる。
(3)子がない皇后のために設置した、「うちつみや」(宮殿)のある名代には、小さな「国」の意味が
あったと思われ、屯倉の計画村落であると考えられる境川上流域とその周辺には、皇子及び皇子を養育
する人々=春部(かすかべ)の存在が推測される。これを裏付けるように、「春」と読む可能性のある
墨書土器が大栗川流域で発掘されている。
(4)屯倉廃止後の状況を示す遺跡として、[開都横穴墓群+№22遺跡+相原遺跡群]は重要である。牧・
高座評関連施設(美濃郷の正倉別院)?・寺などの存在が推測される。
(5)馬牧・大鍛冶・窯業・木工・養蚕・焼畑などの、山野を主たる生産基盤にした屯倉を担った渡来系
開拓氏族の中から、勾舎人部を初めとする天皇の親衛隊が生れ、対新羅・唐戦争における防人が徴集さ
れ、兵衛が出向し、やがてその中から騎馬を操る中世武士団・横山党が生れ、鎌倉幕府を成立させたと
考えられる。水田中心史観の見直しが迫られている。
※地名「兵衛川」「殿入(=舎人)川」「湯殿川」
(6)大きな古墳や、きらびやかな遺物が発見されていない地にも、中央史とダイレクトに繋がる歴史が
眠っている。境川上流域の歴史資源を活かして、日本初のエコミュージアム条例を制定し、年間300万
人の観光客を集める高尾山と、リニアに沸く橋本を結ぶ中心地・相原に、「地域まるごと博物館」=「
玉のよこやま風土歴史学博物館」を創りたい。
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