** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第56回講座    2015.03.30  町田市民フォーラム

             災害列島に暮らす生き方と社会をみつめ直す
 ー 東日本大震災・福島第一原発事故から4年 ー   すぎた 和人 氏


4年前の2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。
かつて福島県と岩手県に住んでいた事、震災の前日から取材で九州に
行っていた事、「もし1日でも前にもう一度東北へ移住していたら自
分も被災者に?」との思いから、震災後の生き方を探る福島支援雑誌
「J-one 生命あるもの」を創刊した訳ですが、一番の動機は首都圏の
店頭からミネラルウォーターとカップラーメンだけがなくなったのを
見て、「日本人はあのような大震災に遭っても混乱せず、きちんと順
番を待って避難した、と世界から称賛されたが、あれは情報に頼り過ぎている現代日本人が
自分から判断しなかっただけではないか?」と疑問に思い、「生きる智恵」を探ろうと思っ
たからです。

 震災から3年経った2014年3月、津波被害の
あった太平洋側の海岸を見ておきたくて、3週
間かけて千葉・房総半島の南端から青森・下北
半島の北端まで往復3500kmmを走りました。震
災から2週間余り後に釜石へ入った印象から比
べて、確かに瓦礫は片付いたものの、ダンプが
行き交う造成途中で依然殺伐とした風景が広が
り、仮設住宅に暮らす人々は未だ震災以前の平
穏な生活へ復帰していません。日本のような先
進国でも、いざ巨大災害が起きると4年や5年
では完全に復興する事は難しいのです。その理由には、高度な都市型生活に依存してしまっ
ているが故に、復興のハードルも高くなっている事が挙げられます。

 同時に被災の状況をつぶさに見て行くと、そこには自然と結びついた生活が薄れた事によ
り、生きるための感覚が弱まって被害を拡大させた事が解ります。例えば、74人の児童と10
人の教師が生命を失った宮城県石巻市大川小学校の事例が挙げられます。校庭の裏山へ登れ
ば助かったものの、たまたま校長がいなかった事から教員達はどこへ避難すべきか40分も議
論に費やしてしまったのです。一方で、同じような規模の小学校で同じような状況にありな
がら福島県南相馬市の真野小学校では児童の祖父が駆けつけ「津波が来るから」とすぐに全
校生徒と教職員を近くの里山へ引率して全員無事でした。
 福島県いわき市薄磯海岸のある女性は的確な判断で下校中の児童を引率して高台へ避難し、
その後の避難所でも見事に切り盛りして弱者を優先する避難態勢に導きました。それは海の
家での救護経験と老人介護の経験があったからです。

 また、いわき市久之浜では、海辺近くにあった稲荷神社が津波にも流されず、一昼夜燃え
た火事からも逃れ、無事残りました。海岸からもっと奥にまったところにあった別の神社は
見事に流されていましたが、数十年前に元あった場所は津波の到達点でした。人の都合で移
された神社は流され、古来からあった神社は残ったのです。偶然かもしれませんが、「現代
人は自然への畏敬を忘れ、人間本位に生きていないか?」とここから学ぶ事は出来ないで
しょうか?

大川小学校の事例は、どんなに緑や野山が近くにあっても一刻一秒を争う災害時は自然の状
況を読み解く自己判断力がなければ役に立たない。海の家を営んでいた女性の話からは、
緊急時にはそれまでの経験が物を言う事が解ります。では、町田のような都会的な生活環境
では、災害時に何が助けとなるでしょうか? それは、災害の経験事例を学び、語り継ぐ事。
この重要性をもう一度噛み締めて考える必要があるでしょう。

    
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