** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第64回講座    2015.11.26  町田 市民フォーラム 3Fホール

             「東京オリンピックは青少年に何をもたらすか」
  スポーツジャーナリスト、作家   小泉 志津男 氏


難産だった1964年(昭和39年)東京五輪の目的
 日本が初めて東京五輪に立候補したのは1931年(昭和6年)の
ことだが、惨敗した。まだ世界には日本のスポーツが広く認知されて
いなかったといえる。その後、1932年の第10回ロサンジェルス大会で
日本が金メダル7個で全体の5位になったことで、1936年(昭和11年)
のIOC総会で「1940年の東京開催」が決定した。その年の第11回ベル
リン大会でも日本は金6、銀4、銅10個で第8位を維持して、4年後の東
京大会へ意気込んでいたが、1938年の日華事変勃発で戦時体制下になり、大会を返上せざ
るを得なかった。

 戦後、日本は1952年(昭和27年)の第15回ヘルシンキ大会から復帰を認められ1955年の
IOC総会で東京五輪開催に手を挙げたが、わずか4票しか入らずに惨敗した。
 その反省を込めて、五輪開催は挙国一致体制で臨むこととなり、1958年のIOC総会を東
京で開催、同じ時期に開催していたアジア競技大会をIOC委員たちに視察してもらい、こ
うした苦労が実を結び、1959年(昭和33年)5月のIOC総会で「1964年の東京開催」が決定
したのである。
	

金メダル16個で
大成功したアジアで初のオリンピック
 終戦の昭和20年から19年が経ったが、日本全
体には"戦争の傷跡"が残っていた。政府は"戦
後復興の東京五輪"として高速道路、新幹線、
高層ビルの建設など当時で1兆800億円もの予算
を投じてアジアで初のオリンピック開催に臨ん
だ。参加94か国、5,500人の選手団は史上最大の
規模となり、大会の特色は、通信衛星シンコム
3号を使って、初の宇宙中継となって全世界に
同時放映されるとともに、「色と音、香り」を強調としたものになった。

 新聞記者5年目の私は開会式の原稿を書くことで、妙に緊張したことを覚えている
 大会最大のヒロインとなったのは大松博文監督が率いる"東洋の魔女"・女子バレーボー
ルだった。それまで国際試合も含めて163連勝と無敵を誇り、チームの猛練習は国内でも
有名になっていたが、特に宿敵ソ連(現ロシア)との決勝戦は、テレビで89.5%という
高視聴率だったことを見ても人気のほどがわかる。このほか男子団体、個人総合を含む
体操での5個、レスリング5個、柔道3個、重量挙げ三宅、ボクシング桜井らの金メダルが
国内を沸かせた。オリンピック初出場の柔道で注目を浴びたのがオランダの巨人・ヘー
シンクと神永の一戦だったが、予選、決勝とも神永は敗れた。
 不振の水陸の中でひとり気を吐いたのが、陸上長距離の円谷だった。前回のローマ大
会で裸足で走り切った超人・アベベを追った円谷は最後の国立競技場に2番目で帰って
きたが、最後のトラック第3コーナーでヒートリーに抜かれ、3着の銅メダル。この時の
大観衆の歓声が大会最高のものだったろう。
 日本は金メダル16個で米国、ソ連に次ぐ第3位に躍り出たのである。

町田にもいた五輪聖火ランナー
 オリンピックでは、発祥の地・ギリシャ・オリンピアードで点火された聖火が長い日数
と人員を要して開催地の主競技場の聖火台まで運ばれる。東京大会では当時、18歳で原爆
に出会った坂井義則君(早大)が最終ランナーに選ばれたが、実はここに来る数日前には
聖火が八王子市から町田市を通っている。そのときの聖火のトーチがここにあり、聖火ラ
ンナーの伴走者で走った大塚光明さん(原町田在住)は「当時の私は町田第二中学の3年生
で、陸上部主将でした。陸上の先生から聖火の伴走者だといわれて、当時の大下市長から
委嘱状をもらい、走りました。確か、1,000㍍を4分で走ることが条件だったと思います。
無我夢中で走ったことを覚えています。オリンピックに参加しているという実感はありま
したね」と話している。

なぜ56年間も東京開催がなかったのか
 東西冷戦、商業五輪問題などオリンピックにも政治や商業主義が入って、従来の「オリ
ンピックは純粋なアマチュア主義である」という神話が崩れ、1980年のモスクワ大会では、
ソ連のアフガン侵攻に米国などが抗議して不参加を表明、日本もこれに追従して不参加に
なった。続く1984年のロサンジェルス大会ではソ連が不参加をする大会となった。そして、
1992年の第25回バルセロナ大会からはプロ選手もオリンピック参加になった。1968年のメ
キシコ大会では米国の陸上選手が表彰台で人種差別に抗議をする行為が話題になり。1972
年のミュンヘン大会ではテロリストがイスラエル選手団の選手村を占拠する騒ぎも起きた。
 一時期、日本の成績も次第に下降線を抱くようになり、1988年のソウル、2008年の北京
とアジアの第2勢力が大会を開催、その間、日本は1972年の札幌、1998年長野と2つの冬季
オリンピックを開催し、成功させていた。
 夏季大会の再現は2009年(平成21年)の石原慎太郎都知事時代で、「2016年の東京大会
開催」に立候補したが、初の南米での開催という大義名分でブラジルのリオデジャネイロ
に敗れ、4年後の2013年、猪瀬都知事時代に再び立候補して2020年(平成32年)の東京開
催が56年ぶりに決まったのである。
 猪瀬氏から舛添都知事と変わったが、すでに国立競技場、エンブレム問題と2連敗しての
出発で多難だが、「おもてなし」の精神の中で、1、複雑な国際情勢、2、テロからの警備、
3、宿泊施設の不足、4、国立競技場の建設、5、原発問題、6、選手強化問題、7、高速道路
など東京の整備、8、経済効果と観光客の増加、9、国際的な日本の地位確立など問題は山
積している。

2020年東京五輪・パラリンピックのキャンプ地に
立候補した町田市への提言
 2020年東京五輪・パラリンピックの候補地招致に町田市も立候補した。すでに近隣都市
の多くが立候補して、すでに招致のために独自で海外に出かけている熱心な都市もある。
 都市のイメージアップ、経済効果ほかいろいろな効果を期待しての立候補だが、どの都
市にどの国の何の競技がキャンプをするかは、これからの問題だが、来年のリオ大会が終
了すると東京大会一色になり、ムードは一気に盛り上がるために、何にでも対応できる準
備は必要である。
 そこで受け入れ側としての準備の何が出来ているかが問題でもある。
1、キャンプ地立候補の目的は何か。
2、どの国の、何の競技を呼びたいのか。
3、町田市ではすでに招致推進市民会議が設置されているが、競技種目や誘致国の絞り込み、
情報収集などを行っているか。
4、誘致のための町田市ならではの「おもてなし」の内容を検討しているか。
5、民泊を含めたホテル(収容能力)、通訳、ボランティアなどの準備。
6、町田市の競技施設は陸上競技場、プール、体育館くらいだが、増改築の予定はあるのか。
7、市民のオリンピック・ムードと関心度は?
8、現在の小、中、高校生が2020年の中心になる。そうした青少年にどうしてオリンピック
への参加意識を持たせるか、また、そういう機会を作ることが必要になるが、その対策は
できているか。

 サッカーの町田ゼルビアが4年ぶりのJ2復帰を果たした。
実際に戦っているチームが一番大変だと思うが、彼らを支えるサポーター(応援団)の存
在が大きい。
 今後は2020年オリンピック・サポーター、特に小、中、高校生を、市が主導して編成す
るくらいの気構えが必要になるのではないだろうか。
 オリンピックは単なる夢ではなく、ひとつの"目標"としてとらえてほしい。
そして、これが大きな「まちづくりの環」につながっていくことを期待したい。

    
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