** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第72回講座    2016.07.21  町田市文学館2F大会室

             「ことばの魅力・ことばの力」
 馬渡 憲三郎 氏


 
  私たちの多くは、話すことばも書くことばも普段は
慣れ親しんでいる日本語を、あまり気にすることもなく
用いています。しかし、ふと、日本語って何だろう、こ
とばって何だろうと考え始めたら、いつの間にか蟻地獄
に陥ちこんだような気分になってしまうことがあります。
どうも〈ことば〉はやっかいな生き物のようです。そこ
で、普段の生活のなかで疑問に思ったり、変だと感じた
りしたことを通じて、〈ことば〉について考えてみたい
と思います。
 
  最近、気になっている〈ことば〉のひとつ
に、テレビやラジオからもしばしば聞こえて
くる「なので」と「的」があります。「的」
については、『井上ひさしの日本語相談』
(新潮文庫)にもとりあげられていています
が、「なので」はとりあげられていません。
この本が最初の文庫としては朝日新聞社刊か
ら出版された頃(平成七年)には、「なので」
は今日のような使い方をしていなかったので
しょうか。
  このことひとつとっても、また流行語とい
うことを考えても、〈ことば〉は流行り廃りすることが解かります。源氏物語や枕草子な
どの古典のことばは、当時は現代語として活用されていたのでしょうが、今日では古語と
呼ばれ、私たちにはその〈意味〉が通じなくなっています。  

  ところで、その〈意味〉とは何でしょうか。誤解をおそれずにいえば、国語の辞書に
掲載されているものといえそうです。私たちはその範囲で会話したり書いたりしていますが、
はたして辞書の範囲だけで用いているのでしょうか。たとえば「腹黒い」とか「男になれ」
などを考えてみると、辞書的な〈意味〉だけでなく、ニューアンスともいうべきものを含意
させてもいるようです。
  そのあたりのことは、吉本隆明が「言語の本質」としてあげている「自己表出性」と
「指示表出性」とが参考になりそうです。乱暴ないい方ですが、前者は文学的な言語、
後者は日常的な言語として考えられます。これまた大雑把な物言いですが、前者を〈表現〉
する言語、後者を〈説明する言語〉として考えることもできそうです。たとえば〈どんなふ
うに嬉しいか〉と〈どうして嬉しいか〉という二つの問いへの返答には違いがでてくること
は想像できます。つまり、前者がより〈表現の領域〉に近づくのに対して、後者はより
〈説明の領域〉にあるということです。事務的な文章や会話がより〈説明の領域〉で行わ
れるのは、〈意味〉の伝達の誤りを防ぐためです。私たちはこの〈ことば〉の「自己表出
性」と「指示表出性」とを無意識のうちにおさえながら、話したり書いたりしています。
さらに気にかかっていることのひとつに、私たちはある年齢になると――制度としての学
校を終えると、どうしてかはわかりませんが〈語彙〉の獲得と活用に意を払わなくなると
ことがあります。学生時代には、新しい言葉と出会うたびにそれを習得したはずですが、
いつの間にかその努力を忘れてしまっている気がします。〈ことばが見つからない〉など
というのも、そのことと無関係ではないでしょう。
  最後になりますが、正しいことば、正しくないことば、あるいは下品なことばなどとい
われることがありますが、その基準は何でしょうか。端的いえば、ある程度の文法的な法
則は順守しつつ、〈場〉を大切にすることがひとつの基準になるのではないかと思ってい
ます。忌詞や隠語があるように、〈場〉には場にふさわしい決まり事(形式)があり、そ
の決まり事を守ることが必要です。
  なぜなら、〈場〉には話すひと、聞くひと、書くひと、読むひとがいる人間の社会だか
らです。そして、その社会を健全に維持していくのは、他ならぬ〈ことばの魅力と力〉
と考えられるからです。


    
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