** * まちだ雑学大学 * ****

  講座概要


    
  第75回講座    2016.10.27  町田市文学館ことばらんど2F大会議室

             「小原國芳による玉川学園村の建設」
 石橋 哲成 氏


 小原國芳は、1887(明治20)年4月、鹿児
島県久志に生まれた。祖父小原茂右衛門は寺子屋の師
匠だった。小さい頃から大変優秀な國芳であったが、
父親が金山に手を出し、家が貧しくなったため、旧制
中学校への進学をあきらめ、鹿児島の電信学校で学ん

で、電信技手の道を進んだ。大根占電信局時代に、下
宿の娘さんの受験勉強の手伝いするうちに、祖父茂右
衛門の跡をついで教育者になることを志し、自らも鹿
児島師範学校へ進学した。
 鹿児島師範を卒業した國芳は、さらに廣島高等師範学校(現、広島大学)へ進学、卒業
後は香川師範学校の教員になった。が、さらに向学の念に燃え、京都帝国大学哲学科へ
と進学。卒業後は、母校廣島高等師範学校ならびに同付属小学校に就職し、新教育に邁
進していった。そのような小原を見つけて東京へと呼んだのが、当時教育界の大御所と
呼ばれ、晩年初等教育の実験校としての成城小学校を創設して校長となっていた沢柳政
太郎であった。
 
 1921(大正10)年、成城小学
校の主事として、小原が自らの思索と、
成城小学校の教育実践の上に立って提
唱したのが「全人教育」であった。
人間は知性だけの存在ではなく、理性
も感性も宗教性も宿した存在であり、
さらに現実を力強く生き抜くには身体
の健康と富が必要なことを説き、真・
善・美・聖・健・富が統合された人間
の育成が重要であることを唱えた。
1923年に起こった関東大震災を機
に、小原は沢柳の許しを得て当時の北
多摩郡砧村(現、世田谷区成城町)に
学校を移した。これが成城学園の始まりである。
    
 成城学園はやがて幼稚園も出来、旧制の成城高等学校も出来て、不動の地位を持つに
到ったが、小原の描く全人教育ではなかった。1927(昭和2)年、新宿から小田原
急行も開通した。その翌年、小原は小田原急行に乗って、多摩川を渡り小田原方面に
向かった。そこで新しい学校の敷地として見出したのが、南多摩郡町田町本町田の丘
陵地帯であった。
 小原は約40万坪の土地を手に入れ、小田急に頼んでその中心に駅を作り、駅からの
半分を学校の敷地として玉川学園を創立、残りの半分を分譲して、学校と村とが一体
となった村づくりを始めた。玉川学園の開校と玉川学園の村づくりは、このようにし
て同時に始められた。玉川学園の生徒たちの労作によって、学園内の整備も村の整備
も同時進行であった。当時生徒たちによって植えられた玉川学園と玉川学園村の桜が、
今同じような大きさになって毎春花を咲かせているのはそのためである。


 玉川学園前駅の近くには、礼拝堂、駐
在所、消防施設、購買部、健康院、郵便
局も出来、学園と村との共有の施設とし
て使用されたし、新年の祝賀会、大焚き
火等々、学園の年中行事には村の人々も
参加した。12月24日の真夜中のクリ
スマスキャロルは、学園の生徒が村の丘
をクリスマスの賛美歌を歌って回るなど
、まさに丘全体でクリスマスを祝った。
小原國芳園長の話を聴く会として昭和8
年に始まり、玉川学園と玉川学園町の住
人が一緒になって歩んできた「丘の会」
であったが、急速な住民の増加もあって、その役割も変わらざるを得なくなっていった。
そこで新たな組織が結成されて、1962(昭和37)年「玉川学園町内会」が誕生した
。玉川学園と玉川学園町の分離独立の象徴のようであった。


    
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